表現とは
ある知り合いのご年配の方と談笑していて、ハワイのことが話題に出てん。
そしたら彼がこんなことを言わはった。
「実はわし、昔、ハワイアン・バンドやっててな。」
「お!そうなんですか(^_^)」
「そやから、わし、ハワイ語も得意なんやで。」
「へぇ!(@_@)」
「ハワイ語なんか、ローマ字のとおり読んだらええだけやから、簡単なもんや。」
「え・・・?」
彼があんまりゴキゲンでしゃべってはるんで、あえて反論はせんと拝聴させていただいた。
「今度教えたろか、ハワイ語の言い方。」
「あ・・・いえ・・・まぁ。。。(間に合ってます)」
「ハワイ語はローマ字どおり読んだらいい。」
これ、よう聞く。
まったく間違ってる、とは言わへん(^_^)/
でも、ほんまゆ~たら、ハワイ語には日本語のローマ字読みだけでは表現しきれへん発音や約束事も含まれてる。
『オキナ』なんちゅう独特な音の他に、母音や子音の発音にも差異があったりする。
ま、今ここでそれについてどうこう述べるのはやめといて・・・
(かくいうあたしも奥深いハワイ語の勉強途上の身・・・たぶん一生涯かかる)
さぁ、本題に移るわな( ̄^ ̄)/
人間の話す言葉はただロジカルに『意味』と『発音』を組み合わせただけのもんとちゃう。
その『発声』にも意味があるやん。
たとえば否定を意味する「いや」って言う発音の言葉を例にすると、
「いや!」・・・完全拒否
「いや。。。」・・・曖昧
「いやぁ~ん♪(鼻音)」・・・一部肯定
・・・等と発声によって伝わりのニュアンスは変わってくる。
(まさに、こんなふうに文字にするのはもどかしいんやけど・・・そこんとこ分かってぇ~~~w)
言葉の発達・進化の初期には、むしろ、そちらの方が大きな意味を持ってたはずや。
ちょっと話の方向がちゃうけど、子供が言葉を覚えていく過程からも似たような想像ができる。
(そういえば、大学で『幼児期における言語習得について』っちゅうレポートを四苦八苦して書いた覚えがある。なつかし。。。w)
文化的サイドでゆ~たら、とくに昔のポリネシアみたいに文字(ある意味で目で見ることによる合理的な言葉の整理)がなかったとこでは、より、音声の表現による伝達が重要やったんやろな。
フラの中に、そんなことがちゃんと伝えられてるわな。
ホオパア、あるいはオーラパの発する言葉の中に。
現代ではハワイ語も文字化されてるけど、決してそれの棒読み(ローマ字読み?)ではなく、同じ言葉でも踊りのシチュエーションによって発声が違うやん。
声をながぁ~~~く伸ばしたり、つぶしたり、震わせたり、声帯にぶつけて裏返したり・・・それらは、ただ歌のメロディーとしてではなく、言葉(歌詞)表現の一部として意味をもたせてあるんやと思う。
あたしはフラの専門家ではないので、あんまり細かいことは言えへんけど、そこには確かに大切なものが込められてる。
あたしが尊敬してやまない人類学の博士がいてはる。
後藤明さん。
・・・っちゅうてもお会いしたことはないんやけどな。。。
彼の著書の中で素晴らしいことを書いておられる。
音楽の表現者としてのあたしの心にも思いっきり響いた文章や。
そのまま抜粋して引用させていただく。
「表現とは、いわゆる語りくちのようなものである。神話というと、記紀神話のように文字で書かれた文献が扱われるのが普通だが、南太平洋社会は他の多くの社会と同様、無文字文化であった。だから神話は元来、口から口へ、記憶によって伝えられたもの、すなわち口頭伝承であった。だから神話は本来、読むものではない。むしろ目を閉じて、椰子の葉のささやきや潮騒の音とともに流れてくる言葉の響きに耳を澄ますことから始まった。そしてその語られている情景や色彩の感覚を心に描くことができる感性豊かな人が、精霊のつぶやきと言霊を体感し、本来の意味に辿り着くことができる。」
『ハワイ・南太平洋の神話 後藤明著』より
そしたら彼がこんなことを言わはった。
「実はわし、昔、ハワイアン・バンドやっててな。」
「お!そうなんですか(^_^)」
「そやから、わし、ハワイ語も得意なんやで。」
「へぇ!(@_@)」
「ハワイ語なんか、ローマ字のとおり読んだらええだけやから、簡単なもんや。」
「え・・・?」
彼があんまりゴキゲンでしゃべってはるんで、あえて反論はせんと拝聴させていただいた。
「今度教えたろか、ハワイ語の言い方。」
「あ・・・いえ・・・まぁ。。。(間に合ってます)」
「ハワイ語はローマ字どおり読んだらいい。」
これ、よう聞く。
まったく間違ってる、とは言わへん(^_^)/
でも、ほんまゆ~たら、ハワイ語には日本語のローマ字読みだけでは表現しきれへん発音や約束事も含まれてる。
『オキナ』なんちゅう独特な音の他に、母音や子音の発音にも差異があったりする。
ま、今ここでそれについてどうこう述べるのはやめといて・・・
(かくいうあたしも奥深いハワイ語の勉強途上の身・・・たぶん一生涯かかる)
さぁ、本題に移るわな( ̄^ ̄)/
人間の話す言葉はただロジカルに『意味』と『発音』を組み合わせただけのもんとちゃう。
その『発声』にも意味があるやん。
たとえば否定を意味する「いや」って言う発音の言葉を例にすると、
「いや!」・・・完全拒否
「いや。。。」・・・曖昧
「いやぁ~ん♪(鼻音)」・・・一部肯定
・・・等と発声によって伝わりのニュアンスは変わってくる。
(まさに、こんなふうに文字にするのはもどかしいんやけど・・・そこんとこ分かってぇ~~~w)
言葉の発達・進化の初期には、むしろ、そちらの方が大きな意味を持ってたはずや。
ちょっと話の方向がちゃうけど、子供が言葉を覚えていく過程からも似たような想像ができる。
(そういえば、大学で『幼児期における言語習得について』っちゅうレポートを四苦八苦して書いた覚えがある。なつかし。。。w)
文化的サイドでゆ~たら、とくに昔のポリネシアみたいに文字(ある意味で目で見ることによる合理的な言葉の整理)がなかったとこでは、より、音声の表現による伝達が重要やったんやろな。
フラの中に、そんなことがちゃんと伝えられてるわな。
ホオパア、あるいはオーラパの発する言葉の中に。
現代ではハワイ語も文字化されてるけど、決してそれの棒読み(ローマ字読み?)ではなく、同じ言葉でも踊りのシチュエーションによって発声が違うやん。
声をながぁ~~~く伸ばしたり、つぶしたり、震わせたり、声帯にぶつけて裏返したり・・・それらは、ただ歌のメロディーとしてではなく、言葉(歌詞)表現の一部として意味をもたせてあるんやと思う。
あたしはフラの専門家ではないので、あんまり細かいことは言えへんけど、そこには確かに大切なものが込められてる。
あたしが尊敬してやまない人類学の博士がいてはる。
後藤明さん。
・・・っちゅうてもお会いしたことはないんやけどな。。。
彼の著書の中で素晴らしいことを書いておられる。
音楽の表現者としてのあたしの心にも思いっきり響いた文章や。
そのまま抜粋して引用させていただく。
「表現とは、いわゆる語りくちのようなものである。神話というと、記紀神話のように文字で書かれた文献が扱われるのが普通だが、南太平洋社会は他の多くの社会と同様、無文字文化であった。だから神話は元来、口から口へ、記憶によって伝えられたもの、すなわち口頭伝承であった。だから神話は本来、読むものではない。むしろ目を閉じて、椰子の葉のささやきや潮騒の音とともに流れてくる言葉の響きに耳を澄ますことから始まった。そしてその語られている情景や色彩の感覚を心に描くことができる感性豊かな人が、精霊のつぶやきと言霊を体感し、本来の意味に辿り着くことができる。」
『ハワイ・南太平洋の神話 後藤明著』より
コメント
No title
ありがとう。自分で書いた文章を改めて読んで涙してしまいます。でも涙がかれた終わりです。先日COP10の世界先住民会議でもアラスカのトリンギット族やアイヌ民族の方々とご一緒してことばの力強さ、言霊を体感しました。ことばは読むのではなく、音にだして表現することがなにより大事だと思います。後藤 明
後藤 明さん
こちらこそ、ありがとうございます。
ご本人よりのコメントに大感激です!!!
引用させていただいたお言葉と、そしてコメントに、
歌の表現者として大きなチカラを感じました。
大きな勇気をいただきました。
こちらこそ、ありがとうございます。
ご本人よりのコメントに大感激です!!!
引用させていただいたお言葉と、そしてコメントに、
歌の表現者として大きなチカラを感じました。
大きな勇気をいただきました。
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